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My Integration日本学 教員インタビュー

文化を越えて日本を語り
合う
異文化理解のため
の知的営為の場に。

04
東北アジア研究センター 教授

岡 洋樹 OKA Hiroki

清朝の時代に多く残されたモンゴル語の公文書。その中にモンゴル人の声を聞く。
清朝の時代に多く残されたモンゴル語の公文書。その中にモンゴル人の声を聞く。

東洋史というと中国の歴史を思い浮かべる方が多いと思いますが、私が専門としているのは、東洋史の中でもモンゴルの歴史です。モンゴルは13世紀にチンギス・ハーンが国を建て、アジアの歴史に大きな足跡を残しました。日本との関係でいえば、5代目のフビライ・ハーンによる日本への派兵(元寇)が知られています。しかし、その後のモンゴルの歴史についてはあまり知られていないのではないでしょうか。

私自身は、遊牧民の歴史への強い関心からモンゴル史研究の道に足を踏み入れました。モンゴルや遊牧民というと、島国の日本からするといかにも遠くて馴染みのないことのように思われますが、日本の遊牧民史研究には明治以来100年以上もの歴史があります。それは、日本に近代の新しい歴史学が導入された時、当時の先達たちが、中国などの農耕文明の歴史と並ぶ重要なテーマとして、遊牧民の歴史を位置付けたからです。モンゴル人が残した最初の文献である『元朝秘史』は、明治40年(1907年)にはすでに日本語訳が出版されています。こんなところからも、モンゴルや遊牧民の歴史に対する関心の強さをうかがい知ることができるでしょう。

さて、私が研究対象としているのは、17世紀から20世紀初めのモンゴルです。この時代、モンゴルを支配していたのは満洲族が立てた中国最後の王朝=清であり、清はモンゴルにどのような統治を行い、モンゴルの社会はどんな状態だったのかを主要なテーマとしています。遊牧民の歴史という点では、清の時代はあまりぱっとしない時代に思われるかもしれませんが、実は違います。それは、モンゴルの人々が残したモンゴル語の史料が、この時代に大量に残されているからです。遊牧民であるモンゴル人は、文字を持たなかった期間も長く、文字史料をあまり残していません。しかし清の時代には、文書行政がモンゴルに持ち込まれ、モンゴル語による文書行政が行われました。それがモンゴル語の公文書としてたくさん残されたことにより、モンゴル人が自分の言葉で残した史料をもとに、モンゴル史研究を進めることが可能になった。つまり、モンゴルの人々の声を聞き取ることができるようになったのです。

日本学国際共同大学院を分野や地域を横断する越境的な議論の場に。

日本学国際共同大学院においては、20世紀以降の日本人とモンゴルの具体的な関係の歴史を考えてみるのも興味深いテーマと言えるでしょう。より日本に即して言えば、日本人の精神史の中でモンゴルが占めた位置や日本人のモンゴル理解のあり方を、中国や欧米のそれと比較しながら検討するというのも面白いのではないでしょうか。それはきっと、日本人の世界(史)認識の一部として、モンゴルを改めて位置付け直すことにつながるでしょう。

日本における日本研究は、日本史や国文学など個別の学問領域でそれぞれに議論を積み上げており、日本以外の領域を扱う学問との協働が主流にはなりません。同じ歴史でも、日本の歴史と東洋・西洋の歴史を一つの枠組みで考えるような教育・研究は、互いに敷居が高く関わりづらいという面があると思います。東洋史を専門とする私にとって、同じアジアの一部であるにもかかわらず、日本の歴史研究者の議論を共有するのはなかなか難しいですし、これは日本史の立場からみても同様でしょう。満洲とモンゴルを指す「満蒙」という言葉があるように、近代において日本はモンゴルととても深い関係を持ちました。近代のモンゴルの歴史を語る時に「日本」を避けて通ることができないように、日本人がモンゴルと関わりを持った歴史がある以上、モンゴルは日本史研究の一部ともなるはずです。「分野や地域を横断する「横型」(共時性)の教育・研究を重視」する日本学国際共同大学院に越境的な議論の場が生まれることを、日本でモンゴル史を研究している研究者の一人として大いに期待しているところです。

「モンゴル」を視点に取り込むことによって、日本理解の枠組みはユーラシアへと広がっていく。
「モンゴル」を視点に取り込むことによって、日本理解の枠組みはユーラシアへと広がっていく。

地域というのは一種の作業概念であり、何を指標にして考えるかによって、地域の広がりは変わってくるものです。日本をキーワードにしたとしても、その対象は現在の日本と一致するわけではありません。モンゴルは日本ではありませんが、日本人は100年以上にわたってモンゴルや遊牧民の歴史について考え、また実際にモンゴルと関わってきました。日本人のモンゴル観・遊牧民観は、モンゴルの人々のそれとはもちろん、中国人や韓国人、あるいは欧米の人々のそれとも異なる特徴を持っています。日本学国際共同大学院では、私たちモンゴル史研究者が「モンゴル」をキーワードにして日本を考えるということも可能でしょう。反対に、「日本」を視点にしてモンゴルを考えるということも期待できるはずです。さらに、「モンゴル」を視点に取り込むことによって、日本理解の枠組みはユーラシアへと広がっていくかもしれません。

地域研究というのは、特定の学問領域だけで成立するものではありません。様々な学問領域から知見を集め、地域について深く考察するのが地域研究の本来あるべき姿だとすれば、日本についても、学問領域を横断した学際的な議論が重要なのは言うまでもありません。

日本に関心を持つ学生は、モンゴルにも、中国にも、あるいは欧米の国々にもそれぞれいます。そうした学生たちの多くが、日本の学生との対話を望んでいます。また日本の大学・研究機関で日本研究を志す学生や研究者にとっても、日本研究に取り組む海外の学生や研究者との積極的な対話の中から、共同で新たな日本観を紡ぎ出すことができるでしょう。日本学国際共同大学院が、文化を越えて日本を語り合う場、異文化理解のための知的営為の場となってほしいと考えます。

外国を研究する者にとっては不可欠な 現地の研究者や学生との対話。
外国を研究する者にとっては不可欠な現地の研究者や学生との対話。

私は学部生の時代に2年間、モンゴル国立大学に留学する機会を得ました。そこでモンゴル語を身に付け、モンゴルの先生方の講義を聴き、現地の研究者の書いた本を読み、現地の人々と話すことを通して、モンゴルの歴史の理解を批判的に共有することができました。日本にとどまり、自分一人で考えているだけでは、遊牧民としての文化を背景に持つモンゴルの歴史を理解することはで到底できなかったことでしょう。また、その程度の理解で何か論文を書いたとしても、それは浅薄で一方的なものとなっていたことでしょう。

モンゴル史を研究する場合、モンゴルの研究者や学生が自国の歴史をどのように理解しているのかを知ることが必要不可欠なように、外国を研究する者にとって重要なのは、研究対象の国や人々を理解するために、現地の研究者や学生と対話する時間を持つということです。 歴史学の研究方法自体は、明治以来欧米から学んできたものであり、日本発の何か特別な方法があるわけではありません。その点に批判や不満はあるとしても、だからこそ欧米の研究者と歴史研究の方法を共有し、対話が可能になるのだとも言えるでしょう。

いま問われているのは、私たちがこれまで蓄積してきた多くの研究成果を欧米やアジアの研究者に向けて発信し、ともに議論することではないでしょうか。私の研究室には、現在もモンゴル人の学生がモンゴル国や中国からやって来て、日本の研究成果を吸収しながら日本の学会で発表し、さらにはその成果を国に持ち帰り、自国の学会での議論に参加しています。また研究室では、モンゴル国の科学アカデミーや中国内モンゴルやロシアの研究機関と、2年に1回、モンゴルの首都ウランバートルで国際会議を開催しています。この会議には本学の大学院生も出席して発表を行い、モンゴルの先生方からアドバイスを受ける機会となっています。こうしたプロセスを通じて私たちのこれまでの研究成果を世界と共有し、議論をさらに深めていきたいと思います。

Profile
  • 早稲田大学第一文学部卒、同大学院文学研究科単位取得退学。博士(文学)。
  • 早稲田大学文学部助手、日本学術振興会特別研究員(PD)、東北大学東北アジア研究センター助教授などを経て、2006年より現職。
  • 主な研究分野:東洋史、モンゴル史
  • 東北大学 東北アジア研究センター スタッフプロフィール